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フレデリック・フェネル

フレデリック・フェネルフレデリック・フェネル

1914年7月2日、第一次世界大戦勃発という歴史的な年に、アメリカ合衆国オハイオ州クリーヴランドに生まれる。
幼少の頃、音楽好きの父から熱心に教育を受け、17歳の時にミシガン州の「インターラーケン音楽キャンプ(現在でいえばPMFのようなもの)」に打楽器の奨学生として初参加、翌年は指揮者として参加し、シカゴ国際博覧会でインターラーケン音楽キャンプ・ハイスクール・バンドを指揮、指揮者としての記念すべきデビューを飾る。

その後、ハワード・ハンソンの誘いでイーストマン音楽学校へ入学、1938年7月、オーストリア・ザルツブルグのモーツァルティウム音楽院へ留学、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーや、彼の助手であるハーバート・アルバートに師事するが、第二次世界大戦(翌年9月勃発)へのヨーロッパ情勢の悪化から、僅か2ヶ月で帰国する事となる。 帰国後、イーストマン音楽学校の指揮者に就任、イーストマン・オペラ劇場の音楽監督、イーストマン室内オーケストラの指揮者を歴任し、1952年9月、世界初のウインド・アンサンブルである「イーストマン・ウインド・アンサンブル」を創設した。この後、10年にわたり作品開拓に時間を費やしたのである。
1965年、マイアミ大学の交響楽団と管楽アンサンブルの指揮者として、また1980年以降は名誉指揮者として活躍した。

1982年、東京佼成ウインドオーケストラの第30回定期演奏会を客演指揮するために初来日し、大成功を収めた。1984年、東京佼成ウインドオーケストラの常任指揮者に就任、翌年、「スーザ賞」受賞。その後、日本での主な活動のひとつでもあった音楽鑑賞教室や録音などを精力的に行う中、1990年、創設したイーストマン・ウインド・アンサンブルの日本公演を生まれて初めて客席で聴くなど、この時期の日本滞在日数は年間の半分にも及んだ。

1991年3月、日本吹奏楽学会より東京佼成ウインドオーケストラと共に「第1回日本吹奏楽アカデミー賞(演奏部門)」を受賞、また同じ年に「インターラーケン功労賞」を受賞し、1992年4月、「音楽教育者U.S.A.賞」を受賞するなど国内外で受賞が相次いだ。

東京佼成ウインドオーケストラの1989年7月のヨーロッパ演奏旅行、1993年9月のスイス演奏旅行を指揮し、音楽文化圏のヨーロッパでも「ウインドミュージックの品質」を高い次元で提示した。

1994年1月、レナード・バーンスタインに次いで7人目の「テオドール・トーマス賞」受賞、1996年には東京佼成ウインドオーケストラより「桂冠指揮者」の称号を贈られ、これを記念して東京、大阪、名古屋ほか主要都市で記念演奏会を指揮した。

1997年3月、全米バンド・マスター協会より「名誉生涯会員」として表彰を受け、5月にはアイダホ州立大学より名誉称号である「ドクター・オブ・ミュージック」を受けた。 1999年から2000年にかけて行った「台湾ミレニアム演奏旅行」では、東京佼成ウインドオーケストラ初のアジア圏での演奏を大成功に導き、その後のアジア圏におけるウインド・ミュージックの隆盛の一翼を担った。

2000年4月、現在も名演と呼ばれる「第66回定期演奏会」を指揮、2001年10月の「第70回定期演奏会」が、日本での最後のステージとなる。

2002年12月、マエストロの永年の夢であった東京佼成ウインドオーケストラ・アメリカ演奏旅行が実現、ミシガン州シカゴで毎年開催される"ミッドウェスト・クリニック"での異例の2公演は、アメリカ合衆国の人々は勿論、世界中のウインド・ミュージック関係者に衝撃を与えた。この公演は、マエストロがこれまでに東京佼成ウインドオーケストラと共に録音してきた400曲に及ぶ作品群の最後の録音となった。
指揮者として、またウインドオーケストラ(アンサンブル)の創始者として多忙を極めた"マエストロ"フレデリック・フェネル・・・。
指揮者デビューを飾ったのと、指揮者として永年の夢であった東京佼成ウインドオーケストラのアメリカでの演奏・・・、奇しくも同じシカゴの地で行われた事は単に偶然であるとはいえないのではないだろうか。

2004年12月7日、マエストロ自身が音楽と触れ合うキッカケとなった"ドラム(太鼓)"のサウンドと共に、身長160センチの小柄な「巨人」は、新たな道へ旅立った。

[2004年12月7日永眠 享年90]

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