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【第170回定期】人間・兼田敏の素顔に迫る

2025/09/10
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9月28日に開催される東京佼成ウインドオーケストラ第170回定期演奏会では、前半に日本吹奏楽界のレジェンド、兼田敏(1935-2002)の生誕90年を記念した特集プログラムをお送りします。日本吹奏楽界に多大な功績を残した兼田敏とは、一体どのような人物だったのでしょうか。兼田敏の愛弟子である作曲家・成本理香さんと、東京佼成ウインドオーケストラ楽芸員の中橋愛生が、兼田敏の知られざる素顔に迫ります。

成本理香

成本理香

和歌山市生まれ。中学時代は吹奏楽部で打楽器を、高校時代はフルートを担当。愛知県立芸術大学音楽学部作曲専攻を首席で卒業、桑原賞受賞。同大学院修士課程、博士後期課程修了。同大学初の作曲分野での博士号を取得。入野賞(1位)、Iron Composer Competition第3位(アメリカ)、愛知県芸術文化選奨新人賞など多数の受賞歴がある。Asian Cultural Council(アメリカ)フェローに選出され招聘を受けてニューヨークに居住してアメリカの現代芸術研究に従事、帰国直前に行った自作自演を含む個展(リサイタル)は好評を博した。現在は名古屋と金沢を拠点に「クロス・ジャンル(ジャンルの越境)」を主なテーマとして創作活動を行なっており、その作品は世界各国のフェスティバルやコンサートで演奏されている。現在、愛知県立芸術大学教授、2024年度から音楽学部長兼大学院研究科長を務める。金城学院大学、名古屋芸術大学講師。


兼田敏ってどんな人?

中橋
兼田先生に直接お会いしたことのない世代である僕にとって、文章やエピソードから兼田先生は、歯に衣着せぬ物言いでとても厳しい方という印象を持っています。実際のところ普段はどのような方だったのでしょうか。
成本
まさに"歯に衣着せぬ"という言葉がぴったりですね。でも、普段は温和で、授業も面白いし、学生に人気の先生でしたよ。楽曲研究という授業があって、これは器楽や声楽の専攻生が受けられる授業なんですけど、そこで兼田先生は、いま自分が練習している曲を持って来いといって、それを演奏させるんです。そこでは学生が普段習っている専門の先生から教わることとは違う視点で色々なアドバイスがもらえて、演奏のレッスンではなく音楽のレッスンが受けられる、そんな授業だったんです。おおらかで面白いこともよく言う先生だったので人気の授業でしたよ。ただ、私の作曲のレッスンでは厳しかったですね。とにかく言いたいことはズバズバと言う人でした。でもそれは決して意地悪とかではなく、物事の本質を突いていることが多かったですね。だから学生たちも先生を慕っていたのだと思います。
中橋
どこかシャイな人だったのかな、という印象も持っています。
成本
そうですね、照れ隠しで厳しいことを言っているような面もあったと思います。本当は優しい人ですから。以前、私の曲をある団体が演奏することになって、そこの指揮者が「ここの音はフラットにした方がいいのでは?」と突然言い出したんです。そしたら、そのとき横にいた兼田先生がものすごく怒り出して、「作曲家が書いたものに、何勝手なことを言うんだ!」と。普段レッスンでは厳しいのにそういう時は私をかばってくれるんですよ。
中橋
ご自身の作品についても、あまり語りたがらない印象があります。
成本
ええ、語りたがらないです。東芝EMIから兼田敏作品集が出た際に、そのCDのライナーノーツを私が書くことになったのですが、その時は「この曲はどういう意図で書かれたのですか?」といった質問にいくつか答えてくださいました。でも、それ以外でご自身の曲について詳しく話されることはほとんどありませんでしたね。

思い出の「食堂兼田」

中橋
兼田先生の作曲のレッスンはどのような雰囲気だったのでしょうか。
成本
私は大学院から兼田先生の門下に入ったので、学部生が基礎的なことを教わるレッスンとは随分様子が違ったかもしれません。
中橋
作曲のレッスンって、いろんなスタイルの先生がいらっしゃるじゃないですか。書いてる途中の曲をバシバシと直す先生もいるし、西村朗先生みたいにとりあえず完成するまで何も言わない人もいます。どんな感じのレッスンだったんでしょう。
成本
私が持っていった曲に対して先生が直接譜面に手を入れることはほとんどなかったですね。「面白くないな」「期待外れだな」といった辛辣な感想を言われることはありましたが、「だから、こうしろ」と具体的に指示されることはほとんどなかったです。一度だけ吹奏楽の曲で「スネアドラムはこういう時はこうするんだ」「3rd.トランペットはこう重ねるんだ」と、2か所直接書き入れてくださったことがありました。そのときくらいでしたね。
中橋
細かいことには突っ込まず、大きく道を示す感じのタイプだったんですね。
成本
そうですね。そういう意味ではレッスン以外の時間の方が学んだことは多かったかもしれないです。当時、兼田先生は愛知芸大の官舎に一人で住まわれていたのですが、そこを友人と「食堂兼田」と名付けて、お腹が空いたらそこに晩ご飯を食べに行き、夜遅くまで先生が色々な話をしてくれるんです。作曲家とはこうあるべきだ、とかね。
中橋
それは楽しそうですね。そこでの印象的なエピソードはありますか?
成本
あるとき、「俺は今これを勉強しているんだ。どうだ、見てみろ」と言って見せられたものがありました。それは、バルトークの『弦楽のためのディヴェルティメント』をコンデンススコアに直している途中の手書きの楽譜でした。「この勉強は、バルトークが何を考えていたのかが本当によく分かるんだ」とおっしゃっていました。「こっちにはこんなのもあるぞ」といって出てきたのは、シェーンベルクの『浄夜』を同じようにコンデンススコアに直したもの。「こんなすごい先生でも、まだ勉強を続けるんだ」と私には大きな衝撃でした。

なぜバラード?

中橋
東京佼成ウインドオーケストラが第170回定期演奏会で演奏する『バラードIV』。これは、兼田先生が吹奏楽のために作曲した5つのバラードのうちの一つです。「バラード」シリーズは、兼田先生にとって非常に重要な作品群だと思います。でも、なぜバラードだったのかという点が僕はずっと気になっているんですよ。これは僕の勝手な憶測なんですが、もしかしたら兼田先生の叙情性への憧れや挑戦みたいなものが表れていたのではないか、そう思っているんです。
成本
なるほど。確かに『バラードI』なんかはそんな感じがしますね。私の考えはもう少しシンプルです。先生にとってはバラードが、一番自由にやりたいことを書ける形式だったからだと思っています。制約を受けずに、新しい試みをしやすい形式だったのかな、と。でも、中橋さんのおっしゃる"叙情性への憧れや挑戦"は、もしかしたらその"やりたいこと"の中にあったのかもしれません。十二音技法のような前衛的な技法を捨てながらも、何か面白いことができないかと模索していた時期に、バラードという形式が合致したのかもしれませんね。

『バラードIV』と晩年の兼田

中橋
兼田先生は、特にこの『バラードIV』に強い思い入れがあったようで、「響宴」というイベントにこの作品を出品されています。そのプログラムノートには、「今の吹奏楽は村社会の中の競技だ。今の吹奏楽曲は流行に乗った一種のファッションで、個性のかけらもない。そういうことを考えながら書いていた気がする」というようなことが書かれていました。
成本
そうですね。この曲が作曲されたのは1997年。兼田先生は60歳で大学を定年前に辞めてしまうのですが、それが1996年。亡くなったのが2002年。ご自身もまさかあんなに早く亡くなるとは思っていなかったとは思いますが、そんな時期だったからこそ、それまでずっと抱えていた吹奏楽界への思いをぶつけたのかもしれませんね。
中橋
兼田先生が定年前に退官されたのはなぜだったのですか?
成本
私が聞いたところによると、ずっと決めていたらしいです。60歳で辞めるんだと。愛知芸大の定年は65歳なのですが、兼田先生は「自分が尊敬していた先生たちが、60歳を過ぎて大学という組織の中で老害になっていくのをたくさん見てきた。自分は老害にはなりたくない」と。だから、60歳で辞めるんだと決めていたそうです。

本当に伝えたかったこと

中橋
20世紀後半の作曲技法に対する先生の姿勢はどのようなものでしたか?兼田先生ご自身は書かないかもしれませんが、学生がレッスンに書いて持ってくる曲には、そういうものもあったと思います。
成本
学生が前衛的な曲を書いてきても、それを頭ごなしに否定することは一切なかったと思います。普段通りのレッスンで、みんな普段通りに「面白くないな」と言われていたみたいです。兼田先生の門下生は非常に多様性に富んでいて、現代音楽の作曲家からポップスの作曲家まで、様々な分野で活躍しています。先生は、表面的な技法よりも「その子が書きたいもの」「その子の力が発揮できるもの」、そして「音楽とは何か」「聴衆に何を届けるのか」という本質的な部分を一番教えたかったんだと思います。だから、それぞれがやりたいことをやって、得意なところが伸びていった。そう思います。
中橋
書きたいものを書くのが作曲家のあるべき姿だっていうお考えだったんですね。
成本
そうですね。「自分が書きたい音楽は本当にそれなのか?」みたいなことをよく言っていましたね。私も若い頃、こう書いたらコンクールに通るかもとか考えながら作曲した曲をレッスンに持っていったら、「まあ、よく書けてる。これならコンクールは通るかもしれない。でも、全然良くない。だってお前これ、書きたいと思って書いてないよね」みたいに言うんです。完全に見透かされていました。

吹奏楽のすすめ

中橋
学生に吹奏楽の道を勧めたりすることはなかったのでしょうか?
成本
兼田先生に吹奏楽を勧められた人というのは、私の周りでは知らないですね。私の場合は、一度大学院生の時に「吹奏楽でやっていこうと思います」と先生に言ったら、「食えないぞ」と一言。でも、やめろとは言わなかったので、そのあと様々な吹奏楽の現場に連れて行ってくれたり、仕事を紹介してくださったりしました。
中橋
たしかに兼田門下から吹奏楽の世界に進んだ人って意外と少ないかもしれませんね。
成本
そういえば、私がまだ学部生で門下生ではなかった頃に、一度だけ吹奏楽を書くことを勧められたことがありました。私が3年生のときに作曲して、学内のオーディションに合格した室内楽作品があるのですが、その披露演奏会の数日後、学食でたまたま先生に会ったら「おい、この前の曲の3楽章、バンドに書き直せ。それを公募に出せ」と言われたんです。当時、バンドクリニック委員会が作品公募もやっていたので、そこに出せと。私は、あの兼田敏がわざわざ吹奏楽に書き直すようにと言うくらいだから、いい線行くのかも?と嬉しくなって書き直しました。結局その曲は通りませんでしたが、自分の門下生でなくても、このようなアドバイスをするくらいなので、他にも私の知らないところで勧められた学生はいたかもしれませんね。

謎の小品「ロンド・マーチ」「機関車ちゅうちゅう」

中橋
今回の演奏会で取り上げられる『ロンド・マーチ』と『機関車ちゅうちゅう』は、僕もいろいろ調べてみたのですが、詳しいことがよく分かりませんでした。
成本
私もそうなんです。以前、私が書いた論文の作品年表にも、この2曲だけは「詳細不明」として記載しています。バンドジャーナルの付録だったということも今回初めて知りました。
中橋
当時のバンドジャーナル、1964年7月号と12月号も確認しましたが、一切解説がないんですよね。ただ、『機関車ちゅうちゅう』については、最近楽譜が再販された際に「いたずら きかんしゃ ちゅう ちゅう」という絵本が題材になっていると明らかにされました。
成本
具体的な題材をもとに作曲するっていうところが兼田作品の中ではとても珍しいです。しかも「いたずら きかんしゃ ちゅう ちゅう」っていうチョイスも意味わかんないなと思いました。
中橋
この絵本は、日本語版の初版が1961年なんです。だから、兼田先生が当時の比較的新しめの絵本を題材にしてるのが、興味深いですよね。兼田先生は息子さんはいらっしゃるんですかね?もしかしたら1964年は、お子さんがちょうど絵本を読んでいる時期だったのかもしれません。
成本
いらっしゃいますよ。実は、先日ご長男に直接伺ってみたんです。そしたら、この絵本は小さい頃に自宅にあって、お気に入りの絵本だったと教えてくれました。先生が曲の題材にするために購入した絵本を偶然お子さんが気に入ったのか、それともお子さんのために購入したのをきっかけに曲の題材にしたのか、今となっては分かりませんが、兼田家にこの絵本があったことは間違いありません。
中橋
『機関車ちゅうちゅう』の謎がひとつ解けました。ありがとうございます。

師匠と弟子の関係

中橋
逆に兼田作品の中でもっともよく知られているものと言えば『シンフォニックバンドのためのパッサカリア』でしょうか。とても人気のある作品です。僕が少し気にしていることがあるんです。兼田先生は、この曲ばかりが取り上げられることに対して、不満はなかったのかということ。
成本
そういった不満をはっきりと聞いたことはないですね。ただ、先生とよくコンサートに行って、この曲が演奏されると演奏中なのにブツブツ文句言ったりするんですよ。最初のB♭が鳴った瞬間に「音程合っとらんやん」って言っているのをよく聞きました。
中橋
この曲は、兼田作品にしては短いし比較的難易度も高くない。だから、よく演奏されたのかもしれませんね。
成本
不満とまではいかないかもしれませんが、もっと他の曲も演奏してほしい、という思いはあったかもしれませんね。この曲はとても短い期間で書かれた作品なので、もっと時間をかけて練り上げた作品への思い入れの方が強かった可能性はあります。あとは、先生にとって私は最後まで「弟子」という存在だったから、そういったご自身の不満を私には話さなかったのかもしれませんね。同じく兼田先生に師事していた真島俊夫さんとかは、途中から作曲家仲間とも言える関係性だったと思いますが、私は先生が亡くなられた頃は、まだ30歳過ぎたばかりで、やっと現音の新人賞に入選したばかりという状況でしたから。思い返せば、学校以外のところによくあちこち連れて行ってもらって、そこでいろんな人に"兼田先生の愛弟子"と呼んでもらいました。小澤俊朗先生なんかは"敏さんの秘蔵っ子"と言ってくれたし、真島さんも"僕の妹弟子"といろんな人に紹介してくれました。周りから見ても兼田先生の弟子の中でも特に近しい存在だったんだなと。だから、兼田先生も最後まで私のことは作曲家同士というよりも"自分の弟子"という意識が強かったのかもしれません。
中橋
特別な関係だったんですね。なんだか僕と西村朗先生の関係に似ている感じなのかな、と思ったりもします。

音楽を愛した「音楽家・兼田敏」

成本
兼田敏という作曲家は、とにかく音楽を愛した人なんだなと強く思います。その音楽表現の形態の一つに吹奏楽があったというだけのこと。岐阜大学ではオーケストラの指揮もされていましたし、ベートーヴェンもお好きだったみたいです。聴くのも、書くのも、演奏するのも大好き、本当に音楽が大好きだったと思います。ふざけているように見られがちですが、常に音楽とは真摯に向き合っていたんです。だからこそ、私のレッスンでもあんなに厳しかったのだと思います。兼田先生は、よく吹奏楽の作曲家と紹介されるし、実際に吹奏楽の世界でも活躍して大きな功績を残された人だと思いますが、それだけではない音楽家・兼田敏を多くの人に知ってほしいなと思っています。

今回の対談からは、兼田敏の飾らない人柄と、音楽に対する真摯な姿勢が浮かび上がってきました。9月28日の東京佼成ウインドオーケストラ第170回定期演奏会では、そんな兼田敏の多様な作品を通して、彼の音楽の奥深さと魅力に触れることができるでしょう。ぜひ会場に足をお運びください。

第170回定期演奏会

第170回定期演奏会

兼田敏生誕90年記念&マスランカ・チクルスVol.3
日時
2025年9月28日(日)
開演14:00(開場13:00)
場所
東京芸術劇場 コンサートホール
指揮
大井剛史(常任指揮者)
曲目
30周年記念ファンファーレ [1990年委嘱作品]/兼田 敏
シンフォニックバンドのためのパッサカリア/兼田 敏
ロンド・マーチ/兼田 敏
機関車ちゅうちゅう/兼田 敏
ウィンド・オーケストラのためのシンフォニック・ヴァリエーション [1977年委嘱作品]/兼田 敏
吹奏楽のためのバラードIV [1997年委嘱作品]/兼田 敏
交響曲第5番/D.マスランカ
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