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【第169回定期】軍人の家に生まれ、音楽に生きた――ミャスコフスキーの歩んだ道

2025/05/02
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ミャスコフスキー

 ニコライ・ヤコヴレヴィチ・ミャスコフスキー(1881-1950)は、のちに「モスクワの音楽的良心」とも称えられる存在となりましたが、そこに至るまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。軍人の家系に生まれ、帝政ロシアからソビエト時代へと移りゆく激動の時代の中で、彼はいかにして創作と向き合ったのでしょうか。

本記事では、東京佼成ウインドオーケストラが第169回定期演奏会で取り上げる《交響曲第19番》の作曲者ミャスコフスキーについて、その人生と音楽の背景を辿ります。

少年期・軍人の道と音楽への目覚め

 1881年4月20日、ミャスコフスキーはワルシャワ近郊ノヴォゲオルギエフスクに生まれます。父親は軍の要塞技師で、親族も士官学校に勤務するなど厳格な軍人の家系でした。ミャスコフスキーは幼くして母を亡くし、多忙な父に代わって叔母の手で育てられます。叔母はマリインスキー劇場の元合唱団員であり、彼女が話してくれた音楽家の生活や合唱団での活動は、ミャスコフスキーの音楽への興味を呼び起こします。また、最初のピアノの先生として彼の音楽への情熱の芽を育んでいきました。

 士官学校に進学したミャスコフスキーは、軍人としての道を歩む一方で、空き時間を見つけてはピアノを練習していました。サンクトペテルブルクに転属後はヴァイオリンを習い、学校のオーケストラで演奏するようになります。1896年、アルトゥール・ニキシュ指揮によるチャイコフスキーの《交響曲第6番「悲愴」》を聴いた彼は、音楽こそ自分の道であると確信します。

 その後は、父の期待に応え軍事技術学校へ進学。卒業後は軍に所属することになります。しかし、ミャスコフスキーは音楽への情熱を捨てきれませんでした。モスクワに転属となっていた彼は、リムスキー=コルサコフに接触し、その紹介でタネーエフのもとを訪れ個人レッスンを受けます。その後、タネーエフに弟子のグリエールを紹介されますが、グリエールとの個人レッスンも転属により中断。サンクトペテルブルクに戻ってからはイワン・クリジャノフスキーのもとで対位法やフーガ、管弦楽法を学び、大きな成長を遂げます。

音楽家としての飛躍と国際的評価

 1906年、ついに軍のキャリアを捨てる覚悟を決め、25歳でサンクトペテルブルク音楽院に入学します。リャードフ、リムスキー=コルサコフらに師事し、それと同時に音楽仲間との交友関係も広がっていきます。同級生の中で最年長のミャスコフスキーでしたが、10歳年下のプロコフィエフとは意気投合し、生涯の友情を築くことになります。1911年に卒業すると、音楽雑誌に多数の評論や記事を寄稿するなど音楽評論家としても活躍し始めます。

 1914年、第一次世界大戦が勃発すると再び徴兵され、最前線へ送られます。過酷な戦場体験は彼の精神に深い傷を残し、何度か転属を重ねたのち最終的にモスクワへ移り住みます。除隊後の1921年にモスクワ音楽院の作曲科教授に迎えられ、以後生涯その職を全うします。また、ソビエトの主要な作曲家によって構成される現代音楽協会でも中心的な役割を担うなど、国内外の新しい音楽作品の普及や若い作曲家たちを支援する活動にも尽力しました。

 1920年代から1930年代にかけて、西ヨーロッパやアメリカでも彼の作品は演奏されるようになり、国際的な音楽界でも頭角を表すようになります。彼の作品は、バルトークやシェーンベルクと並んで、ヨーロッパ最大の権威を誇るユニバーサル・エディションから出版されました。1940年、シカゴ交響楽団の創立50周年を記念した大規模な委嘱プロジェクトの一環として、ミャスコフスキーは《交響曲第21番》を作曲します。ストラヴィンスキー、ミヨー、コダーイ、ウォルトンといったそうそうたる顔ぶれとともに委嘱作曲者として名を連ねたことは、当時の彼が国際的にも高い評価を受けていた証といえるでしょう。

苦難の晩年と彼が遺したもの

 3度のスターリン賞受賞に加え、1946年にはソ連人民芸術家の称号を授与されるなどミャスコフスキーはソ連音楽界の重鎮ともいえる存在になっていました。しかし、ソビエト連邦共産党中央委員会による芸術全般に対する弾圧の動きが強化され、1948年のいわゆる「ジダーノフ批判」により、党の方針に沿わない作曲家としてショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ハチャトゥリアンなどとともに公に批判されることになります。これにより自由な創作活動は抑圧され、いくつかの作品は演奏禁止の憂き目を見ます。

 ミャスコフスキーはそのころすでに重い病に冒されていました。がんの進行を知りながらも、最後まで創作の手を止めることはなく、《交響曲第27番》を完成させます。この最後の交響曲は、彼の死後初演され高い評価を受けます。

 ミャスコフスキーは生涯において、27の交響曲、13の弦楽四重奏曲、そのほか管弦楽曲や室内楽曲、ピアノ曲、歌曲など多数の作品を残しました。また、1921年から亡くなるまでモスクワ音楽院の作曲科教授として、多くの弟子に影響を与え、カバレフスキー、ハチャトゥリアン、シェバリーンなど、のちのソビエト音楽界を担う作曲家たちを育て上げました。

ミャスコフスキーの作品に再び光を

 ミャスコフスキーは、プロコフィエフ、ハチャトゥリアン、ショスタコーヴィチらと並び、ソ連を代表する作曲家の一人といえるでしょう。しかしながら、彼の作品が今日演奏される機会は決して多くありません。東京佼成ウインドオーケストラが第169回定期演奏会で取り上げる《交響曲第19番 変ホ長調 作品46》も、吹奏楽のための交響曲として歴史的意義を持ちながら、演奏されることは稀です。

 それだけに、今回の演奏会はミャスコフスキーという作曲家への理解を深める貴重な機会となることでしょう。加えて、2025年12月には名古屋フィルハーモニー交響楽団による《チェロ協奏曲 ハ短調 作品66》の演奏も予定されており、国内での再評価の兆しがうかがえます。このような機会を通じて、ミャスコフスキーの多彩な作品がより多くの演奏団体に取り上げられ、広く親しまれるようになることを願っています。

著:堀風翔(Horn奏者/TKWO専務理事)

第169回定期演奏会

東京佼成ウインドオーケストラ
第169回定期演奏会

日時
2025年6月25日(水)
開演:19:00(開場:18:15)
場所
東京オペラシティ コンサートホール:タケミツメモリアル
指揮
トーマス・ザンデルリンク(特別客演指揮者)
曲目
交響曲第19番変ホ長調(作曲:N.ミャスコフスキー)ほか

サンクトペテルブルクで育ち、ショスタコーヴィチと直接親交があるなどソビエト音楽とも関わりが深いトーマス・ザンデルリンク。巨匠が紡ぎ出すミャスコフスキーの音楽に、どうぞご期待ください。

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